その「常識」は、あなたに向けられた言葉ですか?──賞味期限切れの価値観

――今日の常識は、明日の非常識。
あなたがこれまで親から言われ続けてきた言葉を、一度思い出してみてください。
「ちゃんとしなさい」 「情けないわね」 「そんなことしたら、恥ずかしいわよ」
それは、かつてあなたが親から受け取り、今はあなた自身が我が子に投げかけている言葉かもしれません。
その言葉は、本当に「あなた」という個人に向けられた、メッセージだったのでしょうか。
私たちは、過去という歴史そのものを変えることはできません。
けれど、その歴史が持つ「意味」を書き換えることはできます。
その視点を持てたとき、私たちは親という名の「重力」から自由になり、自分自身の人生を、自分自身の足で歩むために再定義することができるのかもしれません。
「おいで」と「Go!」――呼びかけに隠された境界線

子育ての原風景、そこには日本とアメリカの「方向」の違いがありました。
・日本の「引き寄せる」磁力
よちよち歩きを始めた子に、私たちは両手を広げて「おいでおいで」と呼びかけます。
ゴールで親が待ち構える「ハイハイレース」でも、必死に自分の方へ手招きします。
愛情に満ちた光景。
しかし、この「おいで」という言葉は、子どもの意識を常に「親」へと向けさせます。
「親の元へ戻ってくること」が歩行の目的になり、知らず知らずのうちに自分と他人の境界線を曖昧にしていく。
親という「目的地」へ引き寄せている。
これは日本特有の、安心という名の強い磁力の始まりです。
・アメリカの「送り出す」推進力
対照的に、アメリカの親たちは「Come here(おいで)」よりも、激しいプッシュの言葉をかけます。
「Go, go, go!(行け!)」 「You can do it!(あなたならできる!)」
「Look at you go!(見て、自力で進んでいるじゃない!)」
彼らにとって、ハイハイや歩行は「親の元へ帰ること」ではなく「未知の世界(あちら側)へ到達すること」。
親は目的地ではなく、背中を押すチアリーダーに徹します。
稲作と開拓――数千年の歴史が書かせた「生存マニュアル」
なぜ、これほどまでに「方向」が違うのでしょうか。
それは、私たちが数千年かけて積み上げてきた「文化」と「歴史」の違いにありました。
稲作の「和」が作った恥の文化
かつての日本は、稲作を中心とした農耕社会。
広大な水路を管理し、一斉に作業を行う稲作は、村全体での共同作業が不可欠です。
「和を乱す」こと、あるいは「集団から浮く」ことは、コミュニティからの追放、つまり物理的な「死」を意味しました。
「人様に迷惑をかけるな」
「恥ずかしい振る舞いをするな」
これらの言葉は、厳しい集団社会で子どもが生き残るために、親が必死に手渡した、いわば「生存戦略」だったのです。
日本において「ちゃんとする」とは、周囲との境界線をなくし、集団に溶け込むことを意味していたのではないでしょうか。
開拓の「個」が作った自律の文化
一方、アメリカのような狩猟や開拓の歴史を持つ文化では、個人の決断が生死を分けました。
広い大地で新しい場所へ「Go!」と踏み出す勇気こそが、生き残るための唯一の「正解」だったのです。
私たちは、自分が悪いわけでも、親が悪いわけでもなく、私たちがどうやって食べて、どうやって生き延びてきたかという、長い歴史の積み重ねからくる異なる時代の「生存マニュアル」のリピートなのです。
賞味期限切れの言葉――スーパーで見かけた光景
先日、春休みで賑わうスーパーを訪れたときのことです。
アンパンマンのマーチが流れる店内、楽しそうに走り回る兄弟
「走らない!だめって。ちゃんとしなさい。店員さんに怒られるよ!」
お母さんの声がフロアに響いていました。
この「怒られるよ」という言葉。
かつて地域で助け合っていた「お互い様」の精神が、現代では「監視の目」への恐怖という歪んだ形に変わってしまった姿かもしれません。
一方で、私がかつて出会ったアメリカのお母さんは、子どもを引き寄せ、静かにこう問いかけていました。
「周りを見て。ここは安全? このまま走り続けたら、どんなことが起こると思う?」
彼女は世間の枠に収めるのではなく、子ども自身に
「社会をどう認識し、どう動くか」
という自律の問いを投げていました。
子ども自身の観察眼に訴え、「You can do it(あなたなら判断できる)」と自律へ向かわせる。
「フロンティア・スピリット(開拓精神)」がアメリカ人の独立心を作り上げたという説は、歴史学者のフレデリック・ターナーが提唱しています。
どちらが正しい・間違いではなく、今の時代にはもう対応していない「賞味期限切れ」のデータかどうか。
「今、この子(自分)に必要なのは、世間の顔色をうかがう力か、それとも自分で判断する力か」
という視点を持つことが、未来の選択を変える鍵になるのではないでしょうか。
「私に向けられた言葉なのではなかった」という光
「私に向けられた言葉なのではなかった」
そう理解できたことは、私にとって何よりも大きな、解放への一歩でした。
私が「情けない人間」だったわけでも、私が「恥ずかしい存在」だったわけでもありません。
ただ、私の親が、引き継いできた「古い時代の不安という重み」が、言葉という形を変えて私に降り注いでいただけだった。
親という「絶対的な壁」が、歴史の流れの中に漂う
「未熟な一滴」に変わった。
親から受け取った「賞味期限切れの言葉」と知った今、そのまま次の世代へ、使い続ける必要はないのです。
歴史を書き換えるのは、あなたです
今日の常識は、明日の非常識。
歴史は変えられません。
でも、その意味は、今この瞬間から書き換えることができます。
目まぐるしく変わるこの世界で、
あなたが子どもに、そして自分自身に伝えている常識は、未来でも有効でしょうか?
